小説’ペスト’で知られるフランスの作家カミュの言葉を借りるならば、志村けんさんのコントを観る時間は私にとって日常における’デコルマン(自己離脱)’といったものでした。発想を練りに練り上げ、考えぬかれた時間と構成に基づいたその’作品’にはあたかも一瞬のアドリブが連続したかのような自然な流れと爽やかな後味がありました。これが一流の’芸’というものでしょう。しかし私にとってのデコルマンは彼にとっては仕事なのです。芸に生活の匂いが微塵も感じられないコメディアンこそ第一級の芸人です。山田洋次監督はそれを見抜いて自身の映画の主役に抜擢したのだと思います。でも志村さんにもほっとするデコルマンのひと時はあったはず・・・その彼のプライヴェートな時間へと入り込み、大切な命を奪ったウィルスは憎んでも憎みきれません。まだまだ先の栄光が待っていたのに・・・
かくしてお二人による作品’キネマの神様’は幻の映画となってしまったのです。しかしここに’花看半開’(花は半開を看(み)る)という禅語へと想いを馳せることによって、兄弟諸氏(みなさん)とカタルシスを共有したいと思います。
多くの人々は満開の花の美しさに感動を覚えるでしょう。でもその満開の花より’半開’こそが見頃なのです。生き生きとした美しさを感じさせる’真の生き様’とその’証’とを垣間見るのに他ならないからです。
芸人のアルチザン、志村けんの生涯こそまさに’花看半開’この言葉にふさわしいのではないでしょうか・・・