~1918年のスペイン風邪~
経済史・歴史人口学の泰斗、速水融(あきら)博士の著書「日本を襲ったスペイン・イ
ンフルエンザ」(藤原書店)はまさにパンデミック研究の圧倒的金字塔、これこそ研究者にとってのCANON(規範)だと言っても決して言い過ぎではないだろう。そしてここから我々は未来へ向けて今、幾つもの重要な事柄を学ぶことが可能なのである。兄弟諸氏(みなさん)ぜひご一読を!
しかしこの風邪によって残念ながら国内外では多くの偉大な人物が命を落としてしまったのも事実である。詩人のアポリネール、画家ではクリムトやエゴン・シーレ、また社会学者のマックス・ウェーバー…..日本では劇作家で小説家、また新劇運動先駆けの一人でもあった島村抱月が逝去、その彼と恋愛関係にあった女優松井須磨子は後を追って縊死した。
抱月訳によるトルストイの「復活」上演の際の劇中での挿入歌「カチューシャの唄」(島村抱月作詞、中山晋平作曲)、その時須磨子が歌った古の旋律は長い時を経た今もなお21世紀に生きる我々の耳を癒し続けてくれる。因みにこの時主人公カチューシャ(カチューシャはロシヤ女性エカテリーナの愛称)を演じた須磨子が付けていた髪留めが後々まで日本でカチューシャと呼ばれているのは、ここに起源があるからだとも言われている。
1918年と言えば6月初頭に作曲家プロコフィエフが来日している。彼は約2か月余りの滞日後、同年8月2日南米へと向けて出発した。即ち日本でのスペイン風邪、その流行からは危うく難を免れたとも言えるのである。その間プロコフィエフと親しく交わった音楽評論家太田黒元雄は日記にこう記している(第二音楽日記抄:音楽と文学社,1920)。
八月二日(金曜)
プロコフィエフの乘る和蘭船(オランダ船)グロティウスは午後三時出帆なので二時過ぎ横濱に行く。ところが出帆は五時に延びたと云ふので山下町の方へ用達に行く。燒るやうな熱い日だ。四時頃また棧橋に帰って来ると間もなくプロコフィエフは車夫にトランクを擔(かつ)がせてやって来る。トラホームの檢査に二時間程費やしたので、若し三時出帆なら間に合はないところだったさうだ。相變らず顔一面に汗をかいて居る。
でもまだ出帆には時間があるので、其の慌ただしい短い時間を棧橋のビヤホールで過す。
二人の前には冷たい麥酒(ビール)の杯が置かれた。そして互ひに再會を約してそれを高く擧げる(中略)。
其のうちに出帆の時間が來た。そこでビヤホールを出て最後の握手をする(中略)。
かうして、プロコフィエフとの愉快な、思ひがけなかった交遊は終わる
(旧字体そのまま。括弧内読みは筆者)。
プロコフィエフ27歳、そして25歳の太田黒元雄。二青年のロマンは青春の一頁……しかしこれはまさに来るべきパンデミックの嵐、その直前の出来事でもあったのである。